ダライ・ラマ14世、奈良にて講演
11月8日(月)、奈良・東大寺においてダライ・ラマ法王による講演が行われた。
本講演は全日本仏教青年会をはじめ、東大寺、興福寺、薬師寺、宗派を超えてチベットの平和を祈念し行動する僧侶・在家の会で構成された「ダライ・ラマ法王来寧招致実行委員会」による開催だった。
そこで全日本仏教青年会(以下:全日仏青)副理事長として全日青から伊東政浩会長、同じく全日仏青理事として釋英義副会長が出席した。
午前8時に集合し、同9時にダライ・ラマ法王を出迎えるためにスタンバイするも諸事情により40分遅れでご到着。そのまま大仏殿に参拝。
伊東会長は大仏殿にてダライ・ラマ法王の介添えの任にあたり、親しく法王に接する。
午前中は東大寺境内にある金鐘会館において宗教者のために「これからの宗教者のあり方」と題して法話がなされた。
午後からは東大寺大仏殿後堂広場にて一般向けに「縁起に基づき、平和と環境のためになすべきこと」と題し講演がなされた。
聴衆の中には東大寺学園の高校生も多数おり、活発な質疑応答も展開された。
◆宗教者向け法話「これからの宗教者のあり方」要約◆
- 人の「おこない」には役に立つ行いと、害になる行いがある。
- 害になる行いについてナーガールジュナ(=龍樹)は、三毒(=貪・瞋・痴)をあげる。しかしその貪は執着を離れることによって滅することができ、瞋は慈悲によって滅することができ、痴は真如を理解することによって滅することができる。この三毒を滅したのちに役に立つおこないが生じるのである、と説く。
- アーリヤデーヴァ(=聖提婆)は、釈尊の説かれた四諦の実践(八正道)によって我執を滅すると説いた。
- 私(ダライ・ラマ法王)自身は在家戒と出家戒を持ち、出家戒においては主に4つの戒を持っている。沙弥戒と比丘戒と菩薩戒とタントラ戒である。その中の比丘戒に体にとって悪いものは慎む・言葉によって相手を傷つける悪い言動は慎む、という基本的な戒がある。それは厳に慎むべきである。
- そして私は毎朝4時間の帰敬を修し、無自性空なるを観じ(分析し)、本尊ヨガを行っている。そして一日の善行(役に立つ行い)を衆生に功徳として回向し、一日の悪行(害になる行い)を告白し懺悔している。
- 二十一世紀の仏教は近代科学を兼ね備えた新しい仏教たるべきである。
- チベットにおいては仏像の建立が非常に盛んであるが、仏像は説法をしない。そこで実践(ヨガ等)が求められる。その実践の中には「読経」があるが、日本でも読経が盛んのようだ。
- たとえば、バスヴァンドゥ(=世親)、アサンガ(=無著)によって著された『唯識』や『倶舎論』の教えは知識として学ぶのみではその教えそのものを維持することはできない。実践(体験)を通して理解して初めてその教えは生きてくるのである。日本においての読経も同じである。意味もわからずただ唱えるだけであれば、形式だけの歌と同じである。
- よって日本の仏教系大学においても、机上だけの学問として終わるだけでなく、瞑想など実践を取り入れるのが理想である。
- 仏教においてはその教えの根底に「縁起」があり、主な4つの部派によってそれぞれ解説がなされている。4部派とはすなわち説一切有部・経量部・瑜伽行派・中観派である。
- 全てのもの・ことには原因と結果が伴うのは必定であり、それは外界(=地球)は当然のことながら一切有情(いのちあるものすべて)においてその法則は守られる。そしてその原因から結果にいたる間の「因(=条件)」は神によってつくることができない。一神教とはここが大きく異なるところである。一神教においては「神が全てを創り出した創造神」ゆえにその法則も神に委ねられる。
- 仏教においてはわれわれの「業(=行い)」が因・条件となって結果が生じると考えるゆえに、その行いをなす「一切有情」は平等であり、地球そのものが「ひとつの家」という認識に立たなければならない。
- また中観派においては「相依相対(=他に依存)」しながら、そしてまたモノに名づけて初めて存在が明らかになると説く。その存在は不変ではなく常に変化を繰り返すことが認識される。
- 現代科学における量子力学の分野において、外的存在(=物質的存在)を分割し微粒子の存在を発見した。さらに分割して究極の存在を認めようとするがそこまでいたる事ができない。
- しかし、実体をもって永遠不変に存在していると認識しているものでも、分析することによって変化し続けることを知ることができた。ここに仏教と現代科学の邂逅をみることができる。
- 先ほど言ったように衆生には貪(執着)・瞋・痴の三毒があり、それを永遠不変の如くとらわれてしまっている。しかし、苦しみの原因を知ることによって、それを取り除くことができることを知るし、幸せを生み出す原因を知ることによって、それを創り出すことができる。その取捨選択を自らの価値観ではなく、縁起の法則に則って行うことが肝要である。
- よって、世界平和を望むならば、その世界平和のための原因を知る必要がある。
- 一神教において「愛」は、神を信じることによって育まれると説くが、仏教において「慈悲」はすべてのものの因果の法則にのっとって育まれるのである。
- 世俗的倫理のみの無信仰者にとってのそれは世俗的価値観によってのみしか育まれることはない。そこに自己執着による争いが生じる原因があることを知るべきである。
◆一般向け講演「縁起に基づき、平和と環境のためになすべきこと」要約
- 世界には多くの「ひと」が住み、各地において民族として文化を形成し、思想や教養の違いはあるが、その底辺にあるものはまったく同じである。ひとりの人間として、その立場の違いはあれども感情が伴うことも、対話によって平和を築くことも同じである。
- それと同じように、世界には多種多様な宗教が存在し、大きくグループ分けをして、一神教・無神教にわけることができる。仏教は無神教に属し、チベット人も日本人も同じ土台にいる。しかし、平和を目指すことにおいては、一神教も無神教も変わりはない。その部分においてお互いに尊敬しあうべきである。
- 二十世紀は物質的な向上に恵まれたが、悲劇の世紀でもあった。つまり戦争の世紀であったのである。流血し、戦死者は100年間で200万人以上となった。
- この戦争の世紀で学んだことは、戦争によって解決できたことは1つもない!ということ。戦争は何の解決策にもならないということを学んだのである。
- そこから心の中に善き変容をもたらすことが解決につながることを知らねばならない。68億の人間はみんな「同じ人間なのだ」という認識をもつこと、それしか解決策はないのだ。
- よって二十一世紀の問題は、困難を力や暴力で解決できないことを知った上で、対話による解決を目指すべきである。お互いが対等の立場で尊重し合い、平和を築いて欲しい。(聴衆に)若い人の参加が多いが、対話への希望を持ってくれることを強く期待する。
- 9.11のテロによる「暴力」で何の解決にもならず、暴力によって相手への嫌悪感を増長させるだけであったことを学んだ。暴力は時代遅れなのだ。
- 対話、そして思いやりのみが問題解決への道なのである。
- 「対話と言う『文化』」を育てていかねばならず、心に馴染ませる必要がある。
- 我々(私たち)・あの人たち、と「分割」するのは自分のためであり、相手に不利になる考え方に繋がる。それは国にも当てはめることができる。「わが国」と執着することによって、他国との違いを強調し、自国の利益のみを考えるようになる。
- これからは分割しない、全人類70億人が「家族」であり、「自分たち」=「人類」の利益とは何かという基準を持つべきである。
- 苦しみを取り除きたい、幸せになりたい、というのは全人類共通の観点であり、全ての有情が慈悲と寛容なる心をもって、害する心を慎み、実践を伴うことが重要である。
- 一つの宗教によって一つの真理を見出すために信心することは重要なことであるが、他の宗教においても自分とは違う「真理」を持っていることに敬意をはらい、「他の宗教も誰かには役に立っている」ことを知り、心から尊敬し、心から賞賛すべきである。